~ 人類学者の徒然なる詩考と猛想 ~

「東京都心で最もチベット的な場所」[LHASA・TIBET]

東京はチベットから世界で最も縁遠い場所かもしれない。

 

 

 

 

整然と流れていく大量の人々、狭くて忙(せわ)しい空間、

これでもかとばかりに目の行き場を埋め尽くす、騒々しい広告群、

そして、隅々まで行き渡る繊細なサービスとテクノロジー。

生きている時間も、空間も、どこかに消失してしまったかのような

特異点といってもいい。東京という街は。

 

住んでみると違う風景が見えてくるのかもしれないが、

チベット的」な精神風景からはかなり乖離(かいり)した空間であることは間違いないだろう。

 

そういう東京の都心でも、「おっ、なんかここは違うな、いいなぁ」と思える場、

はては、「なんかチベットっぽいなぁ」

とさえ思わせてくれるような場所がいくつかある。

 

個人的には、まず、皇居。

正確には皇居の外苑のあたり、である。

僕はこのあたりをぶらぶら歩くのがとても好きだ。

 

開放的で清々しい感じがするからである。

しかし、開放的な感じがするというだけではないような気がする。

それだったら、モンゴルの大草原やモロッコの砂漠に行った方がよほどいいだろう。

 

あの外苑。

丸の内の高層ビル群と人ごみを「抜けて」いった後に広がる

あの「開く感じ」がいいのである。

外苑だけでもビル群だけでも、そういう「開け」の体験は不可能であろう。

<閉→開>というこころの動きは、

雑踏のカオスから「抜けて」いくあの運動が必要不可欠だ。

 

そして、間近に迫っている高層ビルの連なりが、

外苑のあの開放的な空間をまるで「包み込む」かのような効果を生みだしている。

夕暮れ時の太陽がビルの窓々に照り返され、

金色光があの外苑の空気を取り囲むときの荘厳さには、言葉が見つからない。

祝福の時間、天使の時間、なのである。

これは、本当に、そうなのだ。

 

(夕暮れの外苑にて)

 

ところで、

先週の東京滞在の間、お台場に数日ほど泊まった。

仕事などではなく、お台場近くの新橋で落ちあう友達がいたこと、そして

連泊割引をやっていたホテルがたまたまそこにあったからである。

数日過ごしてみると、なかなかどうして、

お台場は悪くないどころか、とても心地いい場所であった。

 

や、は、り、重要なのは、

開放感と包み込まれているという感覚である。

レインボーブリッジやその他諸々の有名・無名の建造物たちが、

まるで生き物のように我々を取り囲む。

そして、新興埋め立て地であるお台場の空はとても広い。

平日の昼間、それも快晴であったからかもしれないが、

遠方には東京タワー、そしてなんと、富士山まで遥拝できた。

海風に吹かれながら、空を感じながら、夕暮れの富士山を拝める。

 

(ビルの間に富士山が見える。)

 

思うに、非日常の事物で<包みつつ開く>その空間というのは、

聖地になりやすいような気がする。 

つまりは聖空間とは、「空への開け」が保障されると同時に祝福されている場所、ではなかろうか。

それはチベットでは人々の生活空間である「谷」に繋がっていく・・。

チベットの谷は、そこに横たわる僧院とともに、人々を囲み護り、空への通路を開いていくのだ・・。

 

と、<妄想の千鳥足>はこのくらいにしておき(笑)、

お台場の散歩中、等身大ガンダムが忽然と目の前に現われる。

 

ガンプラ最盛期に小学生であった僕にとっては、

ガンダム関連のフィギュアは、限りなく「崇高なもの」に近い。

同世代の男たちは分かってくれるであろうが、これは決して大袈裟ではない。

 

巨大な神仏像に見えてくるとは言わないが、

人々の精神を捕獲するそのフェティッシュな存在モードは両者とも酷似している。

モビルスーツ像と神仏像は、深く重なり合うのだ。

 

(ライリ~、ライリ~、ライリ~、リラ~♪)

 

ガンダム像の足元に、いくつかガチャガチャが設置されてあった。

「一回400円」の大人のガチャガチャである。

僕は迷わずお金をいれてレバーを回した。

出てきたのはワインレッドのフィギュア・・、まさか・・!?

「よっしゃ、シャア・ザクや!」と思わず小声で叫んでしまった。

ほんの数秒、小学五年生の大阪のガキに戻っていた。

 

*  *  *

 

最後にもうひとつ、

僕が最近邂逅した「都心で最もチベット的な場所」を挙げるならば、

先週のチベット語講座の後、風のチベットツアーで常連のお客さんたちと一緒に行った、

東京中野にある沖縄料理屋であろう。

 

その夜、狭くて居心地のよいその屋根裏部屋で繰り広げられたのは、

なんと、チベットの伝統サイコロ遊戯・ショ。

飲みが相当入っていた会であったが、このショはそれを加速させる。

三人プレーで二つのサイコロを同時に振る。

もし合わせて②が出ると、自分が「いっき」、

③が出ると、他の二人が「いっき」、

⑫が出ると周囲の人間が「いっき」させられるという

変な不規則ルールがあるのである。

 

ショの場を中心に、アルコールの渦が巻き始めるまでそう時間はかからない。

 

(ショに興ずる手前の三人の女性たち。)

 

そして上の写真を見れば分かるよう、なんとこの晩は女性たちがこぞってショをしていた。

 

ところで、「女ショ」は、ラサでは絶対タブーである。

僕にはなんとも異様な光景に見えたが、数年前ショのタブーについて研究分析した結論によると、

日本などでは「女性も可」ということであった。

そこで、というか、やはり、この晩は何も怪奇現象は起きず、無事ショを楽しむことができ、

ただただみなさんは、気まぐれなサイコロの目に飲まれていた。

 

このサイコロに翻弄されるままの盛り上がり。

これもある種の浄化体験であろう。そう考えると、

単なるサイコロ遊戯であるショも、都心の「チベット的」聖地と重なってこないであろうか。

 

つまりは、こういうことが言いたいのである。

チベット的な場」は東京都心でさえ散見され、なおかつ、それは我々自身で立ち上げることができる。

そして、その核となっているのは、僕も含めみなさん一人一人がそれぞれ持たれた、

ディープな「チベット体験」なのである。

 

(急降下な論理展開でした・・〈苦笑〉。でも真実だと思います。)

 

Daisuke/Murakami

 

10月21日

(ラサの)天気: 晴れ

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