~ 人類学者の徒然なる詩考と猛想 ~

現代チベットの笑い話 [LHASA・TIBET]

チベットのある田舎に、おばあちゃんが住んでいました。

そのおばあちゃんは、とーってもケチなおばあちゃんでした。

 

 

 

 

おばあちゃんは、電気を使うのはもったいないと言って、

常日ごろから一切使わないようにしていました。

毎晩毎晩、ろうそくやバターランプで過ごしていたのです。

 

そのおばあちゃん、ふとしたことで亡くなってしまいました。

 

すぐにお寺からお坊さんが呼ばれ、祈りの読経が行なわれます。

読経は朝から始まりました。

 

おばあさんは亡くなったので、息はしていません。

でも、(チベット仏教の考えで)数日の間は体の中ではまだ息をしているのです。

その息をしているおばあさんの「意識」に向かって、読経はなされるのです。

よりよい転生ができますように。

 

夕方になって、薄暗くなってきました。

お経も暗くて見えにくくなってきました。

そこでお坊さんは、電気をつけました。

 

すると、お坊さんの目の前で横になっていた

遺体のおばあちゃんがむくと起き上がり、

 

「コラ! 電気を消せ、もったいないだろ、このくそ坊主が!」

 

と言って、おばあちゃんは立ちがり、電気を消し、

そしてもとのとおり、布団の中に入って横になりました。

 

もちろん、おばあちゃんは息をしていません。

でもまだ体の中に意識は残っていたのです。

ケチなおばあちゃんの意識が。

 

お坊さんは、その場から逃げ出してしまいました。

 

* * *

 

どうであろうか。

このチベットの風土の香りがプンプンする笑い話!

 

実はこのようなタイプの話、よくラサ人の間で語られる。

上の話は、ドリフターズ風のコントに仕上げると

面白くなるような気がするが、どうであろう。

 

せっかくなので、もうひとつ紹介しよう。

チベット人の笑いのツボは、なかなか奥が深いというべきか、

文化の厚さというか壁を僕などはどうしても感じてしまう。

 

みなさんはどう思われるであろう。

 

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(シガツェ近くにある鳥葬の山)

 

昔々、男が亡くなりました。

 

チベットでは人が亡くなると、鳥葬をするのがならわしです。

鳥葬の儀礼をするのは、特別なお坊さん、トムデンと呼ばれるお坊さんです。

 

トムデンは、男の遺体を裸にし、布にくるんで背中にかつぎ、山を登り始めました。

鳥のいる山のてっぺんまで登るのです。

山をどんどん登っていくトムデン・・。

 

しかし!

てっぺんまでもう少しのところで、トムデンはあやまって

背中から遺体を落としてしまいました。

坂道をコロコロ転がる裸の遺体。

チベットの山は岩山です。樹や草がありません。

下までコロコロ落ちてしまいました。

 

そのとき山の下では、

上半身裸になって自分の身体のシラミをとっている遊牧民の男がいました。

上から転がってきた遺体は、その遊牧民の男の上に落ちました。

どかっ!

男は、びっくり仰天。

そして、とても恐ろしくなりました。

なんたって、裸の遺体が天から降ってきたのですから。

それで遊牧民の男は、そのまま村のほうへ走って逃げていきました。

 

再び山頂のトムデン。

彼は遺体を落としてしまったことに途方に暮れていました。

「あーあ、どうしよう・・」。

そして、ふと山の下を見ると、なんと上半身裸の男が走っているではないですか!

「あれー!? 遺体の男が走っているー!!?そっか、生き返ったんだ!」と思いました。

 

トムデンは、「あんなに嬉しそうに走って家に帰るなんて・・。よかった、よかった。」

と思いながら山を下り、村に向かっていきました。

そして、その遺体の男の女房のところを尋ねました。

 

「旦那さん、生き返ったんだね、帰ってきたんだね、よかったね!」

 

と声をかけると、その女房は

「帰ってくるわけないでしょ! 旦那は死んだんだから!」と怒りだし、

トムデンはすっかり分けが分からなくなってしまいました。

 

* * *

 

どうであろう。

 

この話もなかなかチベットである(笑)。

鳥葬、岩山、遊牧民と、チベットの原風景を彷彿とさせるものが散りばめられている。

そして興味深いのは、最初の話と同じく、<死んでから事が始まる>という点である。

それにしてもなんたるシュールな設定と内容!(笑)

 

この二番目の笑い話、確かに滑稽には思えるのだが、

正直なところ、僕はどうしてもチベット人のようには笑えないのだ。

倫理的に笑えないというのでは決してなく、ただ単に、それほどまでにおもろいか!?

と思ってしまうのである。

 

この話をしてくれたチベット人は、どの人も決まって腹を抱え、

笑いを堪えきれなくなりながら語ってくれた。

この話を聴いているチベット人たちは、言わずもがな、大爆笑である。

 

もちろん、僕がこの話そのものに感応できず、それゆえ、

文章化が冴えず、そのせいで、これを読んでいるみなさんも

そう思ってしまうことも考えられる。

 

が、その一方で、笑いのセンス、笑いのツボというものは、

とてもはっきりとした文化の境界があるような気がするのである。

つまり、笑いの中にこそ、それぞれの文化の癖や匂いが

濃厚に立ち込めるように思える。

そこに笑いの特徴というか、ある種の自律性が見え隠れしてくる。

 

ここで議論を端折って、いきなり結論というか直感(笑!)。

― 人が笑いを選ぶのではなく、笑いが人を選ぶ ―

(=人は自分の文化を選べない、でも、ある文化に自分は否が応でも反応してしまう。)

 

たとえば、

大阪の笑いのノリ、あれは慣れていないと、無意味にウルサイだけであろう。

(僕は大好きであるが。)

しかし、あれに「ホーム」を感じてしまうのは、

大阪の笑いの痛い洗礼を受けた者の特権・本能のようなものであろう。

また、イギリスのあの差別ぎりぎり、もしくは差別そのものの自虐的な笑いは、

性格の悪い人間のみが楽しむジョークだと思われがちであるが、

実はいったんあのジョークの世界の中に魅せられると、

めちゃくちゃにおもろく、あれこそは人を選んでいるような気がする。

 

そして、上のチベットの笑い話もまた、人を選んでいる。

 

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(本題とは関係ないが、いつも本ブログを書いている書斎。猫シロもいる。)

 

話はもどって、

「文化を越える」笑い話、普遍的な笑い話というのも、もちろん存在するであろう。

チベット・ラサにももちろんあるのである!

だが、その多くは、非常にセクシャルだったり、ブラックユーモアだったりで、

公共空間のブログなどでは敏感すぎて、とても再現などはできないが(笑)!

 

 

ということで、

もしご興味があれば、どうかチベット旅行に来て、

チベット人ガイドにぜひ直接聞いてみてください。

チベット文化の基層の深さを思い知ることになるでしょう(笑)。

 

Daisuke/Murakami

 

* 冬のラサ旅行の準備はこのページをご参照に!

 

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(先日の皆既月食のバルコル。)

 

12月15日

(ラサの)天気: 快晴

(ラサの)気温: -5~9度 (寒暖差に注意!) 

(ラサでの)服装: 厚手のフリース、ダウン、コートなど。晴れの日は日差しがとてもきつくなるので、日焼け対策は必須。空気は非常に乾燥しています。この季節、雨は降ることは少ないですが、雨具は念のため持ってきたほうがいいでしょう。

 

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