~ 人類学者の徒然なる詩考と猛想 ~

東京散歩写真エッセイ [TOKYO・PHOTO-SCAPE]

とりとめのない、東京散歩道。

 

 

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玉川上水駅近くにて。

畑の横にあった、とれたて生野菜の自動販売機!

生まれて初めて見た。

合理的といえば合理的だが、なんかありえへん・・。

こういう「シュールな日本」に欧米人観光客たちは心から楽しんでいるのだと思う。

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増上寺と東京タワー。

その日は七夕だった。

境内は願い事をする若いカップルで賑わっていたが、

僕はひとり、隣接する芝公園に行き、ライトアップされた東京タワーを拝す。

この赤鉄の塊は、本当に強く、そして優しく輝いている。

 

誰もいないベンチに座り、冷えた缶ビールを開ける。

一口飲んで、深呼吸。

心も体も弛緩してくる。

そして、周りの風景から浮き出たこのタワーをじっと眺めていると、

いかにも世俗離れした建造物にみえてくるから不思議だ。

 

ふと、20世紀の東京につくられた社(やしろ)だな、と思う。

だとしたら、どんな神様が降臨するのだろう?

モダン東京は、なぜここに「社」(=タワー)を必要としたのか?

そこに思いを巡らしていくだけで、東京という土地が一個の生き物のように見えてくる。

ここからが空間人類学の始まりである。

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港区・御田八幡神社境内にて。

都心をぶらぶら歩いていると、深々とした空間にふと迷い込むことがある。

こんなディープな空間が、都心を包み込む武蔵野台地の突端、

その襞にひっそりと残っている・・。

とても不思議だ。

それにしても、なんともいえない<湿り気>を湛えた神社だった。

ここはまた訪れてみよう。

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東京小金井市にある江戸東京たてもの園にて。吉野家(よしのけ)。

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その中。

 

この江戸時代の農家の建築物は素晴らしかった。

何が素晴らしかったかというと、

質素ながら、家の中にいながらヴィスタ(遠景)が楽しめることである。

畳のライン、そして、格子状のふすま戸の木のラインが、美しい遠近法を構成しており、

中にいる人間の視線が、自然と外側の風景へと誘われる。

視線の先には、まるで絵画のように、外庭の緑が縁どられている―。

 

家のなかに幾何学がそれとなく取り込まれており、

外の美しい自然と織りなす繊細なセンスが伺える。

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「まりなちゃんが、ねこになれますように」

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東京ノ駅看板ハ、ドウシテ、デカイ顔アップ写真ガ多イノダロウ? トクニ、山手線・中央線カイワイ。

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東京の和菓子文化。とても気に入っている。

東京の商店街には、必ずといっていいほど手作りの和菓子屋さんがある。

それも、手ごろな値段ながらクオリティが高い!

これは和菓子を日頃からたしなむ文化が、庶民レベルで根付いている証拠だと思う。

 

写真は早稲田通り。大学の講義を終え、

高田馬場駅に向かうときにここで草餅や大福を買い、

近くの珈琲屋の窓際の席に座って、道行く人々をぼーっと眺めながら食べる。

ほっとするひとときだ。

 

ところで、わが故郷の大阪。

大阪は、和菓子というよりも洋菓子文化ではないだろうか。

京都の高級茶菓子が幅をきかせているためか、和菓子はちょっと敷居が高い感じがする。

一方、大阪人が知っている自前の洋菓子といえば、

数年前物議をかもした「面白い恋人」ぐらいのもので、

ほとんどが神戸系のもので占められている。

(新幹線の新大阪駅の御土産物売り場を思い出せばよい。)

 

そうである、大阪は「神戸洋菓子帝国」の植民地となっているのである。

そんなことに東京にいながら改めて気づく。

 

そして、今でも大阪キッズたちは、モロゾフのカスタードプリンの魔力から脱せずにいる。

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ラブホと墓のコンチェルト (上野・寛永寺霊園にて)

 

ラブホと霊園は空間的に相性がいい、と言われる。

 

「性」や「死」は、日常的に抑圧されていることが多いため、

それが空間的にも抑圧され、結果、一箇所に固まってしまったせいかもしれない。

つまりは、状況的な(circumstantial)理由。

が、中沢新一先生が大阪や東京の『アースダイバー』で指摘されているよう、

内在的な理由もあるかもしれない。

 

それは、性も死も即物的な「もの」、「マテリアル」への志向性をもつものだから、

お互い親和性がある、という見方だ。

(詳しくは、著書をご覧いただきたい。)

 

もし、それが正しいとすると、次に我々が立てるべき問いは、

ラブホを伴う大霊園と、伴わない大霊園では、何が違うのか? である。

そこに偶然以上のものがあるとすれば、それは何か? 

どんな歴史的・空間的エトスが働いて、そうなっているのか? 

 

もしこれに答えることができれば、

「性=死=もの」説を根底から覆すものになるか、もしくは、

強力に補強するものになり得るだろう。

 

 

散歩をすると、

頭が冴え、感性が研ぎ澄まされたりするものだが、

とんでもない方向に思考が漂流したり、ときには、暴走してしまう危険性もある(笑)。

だが、そういうものに心身をまかせていくと、

思ってもみない風景や観念に出くわすから、やはりやめられない。

その「イリュージョン」の妥当性を検証するのは、あとでいいのである。

(僕の書く学術論文は、ほぼすべてこのプロセスをたどる。)

 

来週からはいよいよラサ!

風の駐在員として赴くのであるが、半年ぶりのチベットとなる。

果して、「東京慣れした<ラサ人>の目をもった大阪人」には、ラサはいかに映るであろうか。

 

Daisuke/Murakami

 

 

 

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