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~ 人類学者の徒然なる詩考と猛想 ~

シャーマンのお告げ [LHASA・TIBET]

なぜ我々は、チベットに惹かれるのか?

 

 

 

 

こんな問いは、あまり意味がないのかもしれない。

 

それぞれ好きなように、仏教修行なり、歴史研究なり、

ヒマラヤの大自然なり、マンダラ美術なり、ナマのチベット人なり、

関わり方やそのきっかけは千差万別、好きなように気の向くように、

チベット世界に入って行くだけの話である。

 

「なぜか」は考える必要もない。それに、

考えたところで100%納得のいく答えが得られることは稀だ。

つまりはこの問いは、「地球はなぜ自転してるの?」ぐらいに、

あまりに愚直すぎるのだ。

 

それでも、やはり、

なぜか?の問いは、チベットに深く関係している人間をはじめ、

チベット世界に「なぜか惹かれてしまう」人たちにとっては、

お化けのようについてまわる問いであるのも事実だ。

 

きっかけやそのアプローチは千差万別、十人十色、蓼食う虫も好き好き―。

 

であろう。だが、

いざ一人になってみると、「なぜ?」の問いがむくむくと顔をだしてくる。

それで自分自身に問うてみるのだが、なかなか明瞭な言葉が見つからない。

いつも、必要に応じて、その場しのぎの解答を出している自分がいるのである。

 

(バルコルにて)

 

数年ほど前か。

チベット写真家の長岡洋幸さんや、

チベット関連の著作の多い長田幸康さんなどと、

「きっかけ」について話し合ったことがあるが、

おふたりとも流石であった。

見事に言語化できていたのだ。

非常に具体的かつ感覚的な回答で、なるほど、と

こちらが自然に納得するような「はじまりのチベット体験」をされていた。

 

(最近再び始まった、ポタラ広場でのチベット伝統舞踊「コルシェ―」。)

 

また、最近、

ラサに住んでいる日本人と会うことが多いのだが、

そのうちの一人は、僕が今までラサで会ってきたどの外国人よりも

チベット社会に馴染み、チベット語を操り、チベット世界に対する思い入れも

格段に熱い男である。チベット人との出会いに恵まれたこの後輩を

僕は日本の神事の「福男」のようだな、とひそかに思っているが、

それほどなにかしらのポテンシャルを感じさせる男で、

稀有な「チベット体験」をしている(もしくは、縁あって、させられている)のだ。

 

もう一人は女性で、

彼女もまた僕の後輩であるのだが、この間は生後数か月になるお子さんを連れてきていた。

そうなのだ。彼女は数年前ラサに遊学に来て、一生の伴侶(チベット人)と出会ってしまい、

それで結婚・出産した、なんとも元気すぎる(!?)若い女性なのである。

 

日本で言えば、彼女は「まだまだ青春はこれから!」の大学生ほどの年齢なのだが、

彼女はこのチベットの地で母をしている。

 

デカンホテルの美味しいネパール料理をふたりで食べながら、

彼女はラサでの出産や子育ての苦労話などをしてくれた。

そしてその間にも、彼女は、おっぱいを欲しがる子供の口に、

母乳をあてがいあてがいしていたのだが、

それを観ていた僕はふいに、なんの因果なのだろう・・という思いにかられた。

 

 

因果という言葉・・。

その魔力・・!

 

思うに、因果(カルマ)という捉え方は、

あまり不用意に頻用しすぎると皮相的になってしまうというか、

自己充足的になってしまい、あまりよくない。

そこで自己完結してしまい、外部の可能態に開かれなくなってしまうからだ。

 

過去を振り返りつつ今を見つめる時に、

因果という言葉が放つ世界にほんの刹那、繋がることができる・・。

そういう世界のような気がする。

 

我々は因果の只中におり、そして我々は神仏でもラマでもないので、

その実相は容易に捉えられるものではなく、

ましてや、他人の因果云々を語るのは罰が当たるというものである。

 

そうなのだ。

ようは、自分はどうなのか、ということである。

なにが自分をチベット世界へ押しやっているのか?

それをカルマという「ジョーカー」抜きで、捉えることができるか。

 

 

五年ほど前になるが、

冒頭に放った問い「なぜ我々は、チベットに惹かれるのか?」を、

「なぜ我々日本人は、チベットに惹かれるのか?」へと

若干スライドさせて、英語論文を書いたことがある。

 

ツッコミどころ満載で少々恥ずかしい論文なのであるが(苦笑)、

それでもなんとか、自分の言葉でなにかしらの解答を紡ぎだしたかったのだ。

そこでは、自国の仏教伝統に対するコンプレックス、そして「日本人とは何か」の捉えどこ無さ加減が、

日本人のチベット観の底流にあるなどと、くどくど論じたのだ。

 

ようは、個々人のチベットへの純な憧れを、主観的な理由や能力、カルマに帰することなく、

日本=ネーションの枠組みから、長い歴史の枠組みからどうしても一度捉えたかったのだ。

つまりは、自分自身(の情緒)を歴史化するという感じか。

 

すると、ある地平は一瞬見えたように思ったが、同時に、

「でもなぜチベット?」の問いに対する解答は、余計にずっと遠のいたような気がする(苦笑)。

 

(家の屋上から)

 

* * *

 

十年近く前のある日のこと。

 

僕はラサのポン教のシャーマンの前に座っていた。

彼女はとても優しい眼差しを投げかけてくれるおばあちゃんで、

たまに友達たちと一緒にお宅をお邪魔することがあったのだ。

 

その日は、あるお告げを頂いていた。

自分の前世について、である。

 

彼女がおっしゃるに、

どうやら前世も前々世も僕はチベット人であったのだという。

名前や職業、生まれなども細かく言われた。

 

前世はチベット人だと言われて、

そのへんに対する実感は全くといっていいほどなかったが(今もないが)、

彼女のあるメッセージが僕の心を掴んだ。

僕が前世でチベット人をしているときに、なにかしらの罪を犯したのだという。

前世の僕は、来世も(つまりは今世も)、チベットに生まれたかったようなのだが、

その罪の因業が絡んだ結果、「チベット以外の場所」に生まれることになったのだという。

それがたまたま日本であった。

 

これは、異様に腑に落ちた。

「過去の悪行で、今こうなっている」と言われ、

しっくりくるというか、なんとなく、これはリアルだな、と感じたのだ。

 

急いでつけ加えるが、決して今の僕の境遇が、不幸などとは露ほども思っていない。

どちらかというと恵まれていたほうだと思っている。

しかしそれでも、(恵まれている)今のお前は悪行の結果だ、と言われたところに、

なんとなく安心したのだった。

なにも根拠はないが「やはりそうなのか!」と思ったのである。

 

いまでも、その気持ちは変わらない。

 

(このブログを書いている部屋)

 

なぜチベットに惹かれてしまうのか―。

それは問うても問わなくてもどうでもよい問題であるのだが、

(だったら、最初からブログの話題にするな!という声が聞こえてきそうだが、笑)

もしどうしても問うてしまうのなら、そこには問うだけの理由があるはずなのだ。

 

それだけは確実に言い得る。

 

そして、

いったんチベットに縁ができてしまうと、

誰しも多かれ少なかれ「哲学してしまう」よう仕向けられるような気がするが、

それはそれ自体でチベットに惹かれる新たな契機になっていく。

 

今僕が言えるのは、それだけだ。

 

Daisuke/Murakami

 

(a cat)

 

5月6日

(ラサの)天気: くもり

(ラサの)気温: 0~11度 (今日はやや寒く、雹も少し降りました。)

(ラサでの)服装: 昼間はシャツ、フリースなど。 夜は(厚手の)フリース、ジャンパー、薄手のダウンなど。 日焼け対策は必須。 空気は非常に乾燥しています。念のために、雨具は持ってきたほうがよいでしょう。また、風も強く吹くことも多いので、マスクなども役立ちます。

 

 

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