~ 人類学者の徒然なる詩考と猛想 ~

チベット文化を表象するということ。[LHASA・TIBET]

かたいタイトルだが、思いつくままに。

 

 

 

 

他の地域を研究している研究者から、よく言われることがある。

 

チベット研究者はなんかお互い仲がよくみえる・・。羨ましい・・」。

 

そんなに自覚したことはないのだが、本当にそうなのかもしれないし、

外部から見た、断片的印象にすぎないのかもしれない。

 

しかし、ひとつはっきりしていることは、

チベット学というチベット文化や歴史を研究する分野は、人文社会学の中でも、

超・超・超・マイナーかつ弱小分野であり、吹けば飛ばされてしまう、

しょぼい藁葺き家にみなが共同生活しているようなものなのである。

 

こんなひ弱で狭い所帯のなか、非生産的で無駄な野心で尖がってしまうのは、

それこそ己と他の破滅を招くこと、必定である。

というか、いろんな意味でもったいない。

もちろんアカデミックであるかぎり批判精神はお互い保ちつつも、

なんやかやで助け合っていかなければ、

自分を生きながら得させてくれている藁葺き家の住人たちへの礼儀と恩義に欠く。

 

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(ジョカン前、数年前の巡礼シーズンにて)

 

他人を「助ける」ことは、結局は自分を助けること、

自分を救うことは他人を救うこと、

という仏教の教えにも強引に繋げたくなるが、これはちょっとカッコつけすぎか。

 

ところで、

チベットの文化や歴史をはじめ、チベット一般を対象にしているのが、チベット研究者である。

チベットを「表象」するのが仕事であり、義務であり、欲望である。

 

そこでいつも個人的に感じることは、

チベットチベット文化というのは、ナマモノであり生き物であり、

どうにもこうにも一筋縄ではいかない、ということ。

個々人の高い技術や運などでは、捕獲(=表象)など到底不可能なモンスターにみえてくる。

(おそらく大学者は、違う印象を持たれるかもしれないが・・。)

 

いつも消化不良気味に、というか、

何かを書いた後、表象されえない外側、表象してはいけない外部を感じつつ、

なにかその陰影みたいなものを残しつつ、筆を終わらなければならない、

その微妙なリアル感があるのである。政治的な内容であれ、文化的なものであれ。

 

そのへんのところがいいのかもしれないが、

とにかく底の深いチベット文化という「怪物」と対峙するのは、

やはり必然的に共同作業になるのだな、つくづくと思う。

 

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カイラス山)

 

話は少しとぶが、

はじめ人間ギャートルズという漫画・アニメ、みなさんはご存知であろうか。

僕の大好きなバカ・アニメであったが、この壮大な物語の主人公は、

マンモスの群れを見つけては退治しにいく愉快な原始人たちである。

 

彼らは石器の槍を片手に一丸となってマンモスを取り囲み、

ワーワー叫びながら、怒り狂うマンモスに挑む。

そしてようやく捕獲した後には、さも美味そうにマンモスの肉を食べる。

それはそれは、美味そうに食べるのである。

 

チベット研究者たちは、この愉快な原始人たちに似ている、と思う。

チベットという得体の知れない(=表象を拒む)マンモスと、

一丸になって対峙し、その魂のかけら、分霊のようなものを捕獲し食べる(=表象する)。

それはそれは、美味しいのである(笑)。

唯一違うのは、チベットというマンモスは不老不死であり、

こちらがうまく表象すればするほど(捕獲できたと思った途端)、

何かしら新たな生命力を得て更に大きくなっていくようなのである。

 

だからこそ「共同作業」になるわけであるが、

その作業形態も、「敵」であるマンモスの生命の源のように思えてくるから不思議である。

 

チベット」や「チベット文化」というモノ(表象の対象)は、結局のところ、

当事者(チベット人)の実態ではなく、外部にいる我々が勝手に想像しているにすぎないのか???

 

チベット」という異郷的な宗教空間、そして現在の複雑な政治状況となると、

余計にこちらの想像・妄想はかきたてられる。

そしてチベットは、個々人の思いや夢や無意識が投影されやすいものとなっていく。

個々人の夢は、夢である限り、閉鎖空間を生み、それ故、他者の夢と同化や対立もしやすくなる・・・。

 

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(観音様)

 

収拾がつかなくなってきた(笑)。

話を戻そう。

「仲のよい」チベット研究者ということであった。

 

思うに、仲がよくも悪くもない。おそらくフツーである。

ただ、チベット学が人文社会学全体の中で置かれている超マイナーな位置性、

そして、チベット文化や伝統というものがこの半世紀置かれている境遇、

からすると、

「仲のよい感じ」は必然であろう、と思うわけである。

 

そして一方、チベット研究者は、欧米でも日本でも「変わり者が多い」

とよく言われるが、それは、案外「協調して仲がよい」ことの別の側面のような気もする。

文献専門であれフィールド専門であれ、

あの(この)、濃い、チベット文化の共通体験が、

一般社会にまともに適合できない、変わり者を惹き付け、

ある種の紐帯(ちゅうたい)を生み出しているようにも思えるのである。

 

Daisuke/Murakami

 

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(大きくなったか)

 

6月9日

(ラサの)天気: くもり時々晴れ(夜は雨も降るかも)

(ラサの)気温: 10~24度(昼間は相当暑いです)

(ラサでの)服装: 昼間はシャツ、Tシャツ、フリースなど。 夜はフリース、ジャンパーなど。 日焼け対策は必須。帽子は被ったほうがいいです。空気は非常に乾燥しています。雨期なので雨具も忘れずに。

 

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