~ 人類学者の徒然なる詩考と猛想 ~

チベット男はどのような<愛の言葉>をチベット女に投げかけるのか? [LHASA・TIBET]

愛の告白のカタチは普遍的なのかもしれないが、

チベット民族特有の、とでもいえるような<愛の表現>が存在する。

 

 

 

 

最近、僕の若い友人(女性)から、

彼女に寄せられたチベタン・ラブレターを何枚か見せてもらった。

本人は、ああこんなのもらっちゃったよ、と照れながら見せてくれたのだが、

そこには今まで僕が見聞きしてきたチベット男の愛の告白の典型のようなものが

散りばめられてあった。

 

本人の許しを得て、差しさわりのないものだけをここに少し紹介する。

ちなみに原語は、すべて<チベット語>である。

 

「・・僕の前世の縁で、君に今世出遭うことができた・・ 心から愛しているよ・・」

 

「・・前世の縁、そして因業(カルマ)により、僕たち二人は出遭えたんだよ・・ 

この間一人で部屋にいるとき、君の名前を題にした物語を書いたんだ。 

ああ、君の笑顔、君のことが大好きだ・・」

 

ダライ・ラマ6世の詩や、昔のチベットの諺には、

<心の内側のこと>は自分の母親にさえ話してはいけない、

などと言われているけど、僕は違うよ。

僕は<こころの白いままに>そのまま誠心誠意、君にすべてを告げてきたし、

これからも告げるよ・・ 君もすべてを僕に告白すればいい。

君のことが大好きだ・・一緒になりたい・・」

 

「ああ、君の笑顔、君の宝石のようなふたつの眼、

美しく安らかな顔と、君の紅い唇・・。

君のすべてに僕の心は奪われてしまったよ・・。

なんて君は自然体の女性なんだ・・! 

君の話しかた、そして君の自然な笑顔は、

十万もの芸術作品より、ずっとずっと美しい。

僕はこのことに絶対の確信を持っているよ・・。」

 

みなさんは、これほどの雄弁さと自信に満ちたラブレターを

もらったことはあるであろうか。

僕はといえば、これほどのものを書いたこともないし、もらったこともない。

僕が淡白すぎるのかもしれないが、チベット人の直情性や激情に比べれば、

日本やヨーロッパなどの文化の愛情表現は、

微妙だったり「ひねり」があったりで、分かりにくいものが多いような気がする。

 

もうひとつ、上のチベット男の告白表現の特徴は、

仏教用語を援用しているところである。 

「前世」や「因業」などがそれである。

日常のチベット語には仏教的な表現がたくさんあり、それがそのまま

愛の告白にも彩りを与えているともいえるが、

仏教の語法・手法をあれこれ使って、女性を口説くのは、

チベット男の常套手段といえるかもしれない。

 

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(妖しげな余裕をかましたお顔の女神クルクッラー[ギャンツェ・クンブムにて]。

この女神の矢に射抜かれると、愛欲がかきたてられ、ある種の宗教的体験へ導かれるとか。)

 

10年以上前、インドのチベタン・コミュニティに住んでいたとき、

ある日本人女性がチベット男からラブレター(英語)をもらい、

相談を受けたことがある。

それは、次のような口説き手法だった。

 

○○○・ラマは説法の中で、日本人は礼儀正しく、信仰深いので、

これからチベット人は日本人ともっと交流して団結し、

結婚などもしていかないといけない・・

だから、我々ふたりも一緒になろう!

 

うむーぅ!?!? 

思わず唸ってしまうほどの大胆かつ直球すぎるアプローチ。

 

宗教的権威を持ってくるところが、いかにもチベット人らしいが、

このチベット男はなるほど、僧侶であったのである(!)。

僕の知る限り、○○○・ラマはそんなことをご自分の説法で

真面目に説かれるはずがないのだが、この男の<リアリティ>の中では、

民族の結合と男女の絆が、妄想的にスライドしていったのかもしれない。

 

あと、ぜひとも紹介しておきたい、チベット男の愛の言葉はつぎ。

 

「お前は、オレの心臓の脂肪だ」

 

この告白の文句、僕は実際聞いたことはないが、

昔、遊牧民の恋人たちの間で

ささやかれていたこともあるようである。

 

なんとも遊牧民らしい、

心の臓の一部となった君への、最高級の愛のオマージュであるといえよう。

 

それにしても「脂肪」とは・・。

超乾燥地帯のチベットは脂肪分が大切な土地柄だとはいえ、

日本人女性で、<お前は脂肪だ>と言われて喜ぶ人はまずいないであろう。

 

 

このような直情的で熱のこもった愛の表現は、

実はチベットでは珍しくないようである。

それは昔からのチベット人の<愛のカタチ>なのかもしれないが、

思うに、あの偉大な愛の詩人ダライ・ラマ6世に

負うところも大きいのではないであろうか。

 

ダライ・ラマ6世は、厳しい修行生活が肌にあわず、

政務からも僧院からも逃げ出し、酒と女に溺れながら、

数多くの愛の詩を紡いでいった超異色のラマとして、

チベットの歴史の中でも逸脱した存在である。

 

自身の愛を<民族の言葉>で結晶化させ、後世に与えた影響は甚大で、

それが今でも<チベタン・ロマンティシズム>に、

大きな権威と彩りを与えているような気がする。

 

ここに、彼の詩のひとつを紹介する。

 

瞑想修行をしているとき、

[現われてくるべき]私のラマのお顔は、まったく現われてこない。

瞑想修行をしていないとき[でさえ]、

あなたの顔は、ああなんとも、こんなにはっきりと心に現われるのであろうか、ああ!

 

一字一句よく読んで、よく想像して欲しい。

僧侶中の僧侶でなければならぬ男に、

このような言葉を投げかけられた女性の気持ちを。

 

宗教と愛の交錯するチベット人は、

チベット宗教文化の矛盾・問題・魅力そのものなのである。

 

Daisuke Murakami

 

5月8日

(ラサの)天気: くもり時々晴れ

(ラサの)気温: 4~19度 

(ラサでの)服装: 昼間はシャツ、フリースなど。 夜は(厚手の)フリース、ジャンパーなど。 日焼け対策は必須。 空気は非常に乾燥しています。念のために、雨具は持ってきたほうがよいでしょう。また、風も強く吹くことも多いので、マスクなども役立ちます。